奄美大島の紹介

奄美大島の景観

このページでは、奄美の歴史を日本史の時代区分に照らし合わせて、時代ごとに紹介しております。

縄文後期に、南九州を中心の市来式土器が現れました。
その土器が、奄美大島宇宿貝塚(笠利町)で発見された事から、南九州に住んでいた人々が南の島に住みついたと考えられています。

<社会の確立>奄美大島の奄美大島宇宿貝塚(笠利町)では、司祭者と推定される20代前半の女性と新生児が埋葬された後が見つかり、その当時には司祭者によってまとまりをもつ
社会状況が確立されていたと想定されます。

<文献に登場>【日本書紀】によると、都貨羅国の男2人女4人が海見島(アマミ)に漂流したとの記事があります。
都貨羅国とは、タイ国メコン川下流地域の王国ドゥラダブの事で、唐に朝責する途中に漂流した事と記されています。
これはアマミの語が確認できる最初の記事となります。

<交易の跡>土盛マツノト遺跡(笠利町)、小湊フワガネク遺跡(名瀬市)などで大量のヤコウガイが見つかる。遺跡の時期は6~10世紀におよびます。
完成品はごくわずかしか見つからない事から、交易品として島外へ持ち出されたと考えられるいます。

平安時代の貴族達が、貴重な品々(ヤコウガイ等)を産出する島(奄美)をキカイガシマと呼びました。
南海の島々は王朝貴族の珍重すべき品々を産出する事で、「貴」のイメージを持って認識されていた。

1160年ごろ、平忠影がキカイジマに逐電し、文治4年には源頼朝の命で天野遠影らがキカイジマに渡り、源義経に味方した勢力と合戦し帰降させた。また、その頃の奄美大島は、国家的な流刑地として機能し、「貴」の文字を用いて表記されたいたキカイジマは、都人の中に犯罪をケガレとする認識、異地に対する恐怖心や地獄観が浸透し、また地獄のイメージに通じる火山島であることから、表記に「鬼」が持ちいられる事が多くなってきた。

1466年頃、喜界島は、沖縄で登場した琉球王国による連年の攻撃をしのぎましたが、琉球王国の支配下になります。
また、奄美大島には。グスク(城郭遺跡)が数多見つかっており、勢力のせめぎ合いの地であった事がわかります。

1609年、島津家久は、100の船で3000人の軍勢を琉球王国に差し向けました。
島津軍は大島の笠利間切津代奏、焼内(宇検)、深江ヶ浦(奄美市)、大和浜(大和村)、西見子(瀬戸内町)に上陸し西間切り(加計呂麻)では戦闘が行われたとの事。
その後、琉球王国が落ち、幕藩体制のもと島津氏の支配下に下ります。

明治維新の改革が始まり、島役人の代表者と鹿児島県は、砂糖と物品の一手売買契約を取り交わして大島大社を設立された、しかし洋行帰りの、丸太南里はこの砂糖政策に対して解除を求めて立ち上がった。
1878年に大島商社は解散して砂糖の自由売買が実現した。
これを期に人々は立ちふさがる障害と闘いながら基盤産業を発展させた
この頃に、大島紬も商品化され知名度を上げた。

前期には、第一次世界大戦の影響で、経済が好景気になるが、その後価格が暴落し島民を苦しめた
生活に困窮した島民は本土の工業地帯に出稼ぎにいき、関西に奄美大島出身者が多く転出した。

1931年満州事変が起こり、1941年には太平洋戦争が起こる。
奄美大島は、防衛線として地理的位置が重視され、「奄美大島要塞」など大島海峡の軍事施設が増強された。
1944年に名瀬で大空襲が起こり90%が焼失し戦争の爪跡を残した。

戦後、日本は無条件降伏し、米兵が名瀬に駐屯。
北緯20度以南の行政分離によって本土への渡航が禁止された。

このような軍政府の支配下で、食糧難にあえぎながらも、名瀬市では演劇活動や出版活動など文化活動が盛んだった。
その後、日本復帰運動が活発になり1953年に日本に復帰された。